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【横浜市鶴見区の不動産屋】鶴見の歴史①

横浜市鶴見区は、横浜市内で最東端に位置している区です。
約9000年前の縄文時代の痕跡も残されていて、市内では約10万年前の化石なども発見されている、古代の歴史がある街です。
鶴見には、どのような歴史があるのでしょうか?
古代から中世にかけての歴史を、解説します。

目次

中世以前の鶴見

鶴見区は、縄文時代からの痕跡が残っています。
当時は、現在の丘陵地帯を除いた一帯の低地が全て海だったといわれています。
また、遺跡からは世界最古と言われる縄文早期の撚糸模様の土器も出土しています。

4500年前の縄文時代中頃からは海岸線も後退して、現在の地形に近い形になりました。
当時の貝塚からは、竪穴住居跡や人骨などが発見されています。
当時から、海の幸と山の幸に恵まれた住みやすい土地だったと思われます。

約2000年前の弥生時代には、鶴見川周辺で水田での米作りも始めています。
遺跡からは、日用品や盛り付け用、貯蔵用など様々な弥生土器が出土しています。
また、遺跡からは非常に珍しい人面土器が見つかっています。

平安時代になると、律令制度ができて大和朝廷へと租庸調を納めるようになり、西国の警備のために男子が防人として出兵するようになりました。
区内には、平安時代に創建された寺院も複数あります。

中世の鶴見

源頼朝が征夷大将軍になって鎌倉幕府を開くと、鎌倉から近い鶴見も幕府と関わりが深くなっていきます。
平氏を倒して鎌倉幕府を開いたときも、鶴見と関係のある武士も多かったのです。

当時は、鶴見郷や大山郷と呼ばれていました。
1241年には、将軍の頼経をはじめ多くの武士が鶴見神社に立ち寄り、評定州の一人である秋田城之助安達義景の別荘へとっ向かったという記録が残されています。

また、鶴見には寺尾城という城がありました。
1334年に建造され、1575年に滅びるまで代々小田原北条氏に使えた諏訪氏が城主を務めていました。

寺尾城城主の歯かがどこにあるのかは定かではないのですが、1968年には寺尾城の麓にある観音堂跡から古銭約2000枚が壺に入って発見されました。
現在、寺尾城址一帯はとの山公園として整備され、保存されています。

まとめ

鶴見には、古い歴史があります。
10万年前の化石や9000年前の痕跡、縄文式土器や弥生式土器、貝塚や人骨など、歴史的に貴重なものがたくさん見つかっています。
鎌倉幕府が開かれた鎌倉時代になると、鎌倉から近い地として幕府とのかかわりも深くなり、多くの人員が関わるようになりました。
また、鶴見にあった寺尾城は、現在城址が残されるのみとなっています。

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