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【横浜市鶴見区の不動産屋】鶴見の歴史②

横浜市の区では3番目に人口が多い鶴見は、古くからの歴史があります。
特に鎌倉時代は鎌倉幕府から近いため、大いに賑わいました。
しかし、鎌倉時代が終わり室町時代、江戸時代、そして近代となってからも、鶴見は発展を続けたのです。
江戸時代以降の、鶴見の歴史について解説します。

目次

江戸時代の鶴見

江戸時代になり、家康が東海道を整備したことで、鶴見は神奈川宿と川崎宿の間にある宿場として賑わいを見せます。
土産物屋や茶店なども街道沿いに並んでいて、名物は米粉のよねまんじゅうや市場周辺の梨がありました。

鶴見区域は幕府の直轄領になっていて、代官が置かれていました。
代官の下には名主がいて村を治めていたため、村では大きな権勢を誇っていました。
それでも、暮らしは厳しいものでした。

鶴見では、生麦事件という大きな事件が起こっています。
1859年に横浜港が開港し、諸外国の領事館が置かれるようになって外国人が増え混乱していた時期に、攘夷に燃えていた武士が外国人を襲っていました。

1862年に薩摩藩主の父である島津久光が直視の護衛を終えて京都へと向かい、生麦を通ったところで4人の外国人が行列に巻き込まれてしまい、警護についていた武士が英国商人を切り殺してしまったのです。

幕末の混乱期にあって、外国人殺傷事件は諸外国と日本との関係を悪化させ、日本外交にも少なからず影響を与えました。
そして、大政奉還によって明治を迎えると、鶴見は真っ先に文明開化の波にさらされました。

明治以降の鶴見

新橋から横浜までの鉄道ができた時、鶴見駅も設けられました。
鉄道の開業に伴って東海道はさびれてしまい、鎌倉時代から続いていた「田祭り」も廃止されてしまいました。

これまでの文化がさびれたものの、鶴見は交通の便が良く風光明媚な土地として別荘を求める人が増えてきました。
鶴見川の河口には、芸州浅野家の大きな別荘もあり、安芸様屋敷と呼ばれました。

大正時代は大規模な埋め立てが行われて、工業や石油会社などが進出して京浜工業地帯の発展の礎となりました。
労働者も前億から集まり、大きく発展していったのですが、第一次世界大戦後の世界恐慌や関東大震災で大きなダメージを受けています。

戦後、高度成長時代も終わりを迎えた頃、鶴見区は新しい街づくりに取り組みます。
工場群は移転して空や海をきれいにして脱公害を目指します。
市民のいこいの施設もオープンして、横浜の新名所になりました。

まとめ

鶴見区は、江戸時代に幕府の直轄地となり東海道の宿場町として栄えていました。
生麦事件が起こったことで有名になってしまいましたが、事件を起こしたのは英国商人と薩摩藩主の護衛なので、直接関係したとも言い難いでしょう。
明治になってからは文明開化の影響をいち早く受け、別荘地としても発展し、大正時代になると近代工業化が進んでいきました。
高度成長期が終わった後は、魅力ある街づくりに取り組んでいます。

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